あっという間に25年生きてしまった。

私は今25歳。今年の9月に26歳になる。

 

この歳になってようやくわかったことがある。

「いつかは〜したい」「いつかは〜になりたい」という「いつか」がいつまでも来ないということである。

このことを身に染みて感じるまでに25年のも年月をかかってしまった。情けない。

 

そして、もう一つ身に染みて感じていることがある。

「人生は一度きりだ。」ということ。

この一文はあまりにもありふれている。何かを成し遂げた人、大きなチャレンジをした人はこの言葉を理由に、その未知の一歩を踏み出した人が少なくないのではないだろうか。

でも、私はこの言葉の意味をしっかりと飲み込むのに25年もかかってしまった。

 

「人生は一度きり。」

この言葉は、小さい頃から幾度となく聞いたことがある言葉だった。

だから、人間挑戦するのだと。やりたいことをやり遂げる勇気を持とうと。

でも、今までは、少なくとも学生時代はこの言葉がちっとも響かなかった。むしろ「寒い」とすら思えた。人生なんて途方もなく長いんだから、この長い人生の過程でいくらだって転機はあるだろう、人生が一度きりということを理由にしなくたって、と内心思っていた。いつかやりたいことはいいタイミングでやる時が来るし、なりたいものには思い続ければいつかはなれるって思ってた。

でも、その「いつか」はいつまでも来ないし、「人生は一度きり」なのである。

昔から古い記憶があまり残っていないタイプだからかもしれないが、気がついたら25年生きてしまった。まだ若いという言い方もできるだろうがもう四半世紀生きた。気がついたらもう大人になってしまっていて、それらの言葉の意味がようやく理解できた。

 

そして、少し前ツイッターで人生の体感時間について知った。

「人が生まれてから20歳までの体感時間=20歳から死ぬまでの体感時間」なのだそうだ。つまり、体感時間にすると人生の折り返しはもう5年も前に過ぎていたことになる。

衝撃だった。

こんな来るはずない「いつか」を夢見て呑気に過ごしていた間に、人生折り返し地点を過ぎていた。大失態だと思った。なぜなら、もっと意味のある瞬間、出来事がたくさんあって人は構築されて行くと思っていたからだ。特にこれといって成し遂げたものも思い浮かばないまま人生の折り返しを過ぎていた。(成し遂げていないばかり数えてしまうのが人間の良くないところという話もあるが)

そして、こんななんとなく時間を過ごしていたら、あっという間に残り半分の人生が終わり死ぬのだと思うと、死ぬ覚悟を決めるにはあまりに時間が足りないとさえ思ってしまった。

 

幼稚園に通っていた頃は1日が長く感じた。日中のジリジリとした太陽も、家に帰ってから眠るまでの時間ももっとずっと長かった。

なぜ、20歳から死ぬまでの体感時間が短く、逆に幼少期の1日がそんなにも長く感じられるのか。その理由は、初めての回数なのだという。

初めての経験が多いほど、人は時間を有意義に、長く感じるものらしい。

確かに、小さい頃は毎日が初めての連続だった。

確かに、どこかへ向かう時、地図を見ながら初めての道を進む行きの方が、同じ道を戻る帰りの道のりよりもはるかに長く感じた。

 

もっと長く生きた心地を得たい、もう死んでもいいやというくらい長い体感時間を過ごしたい。そう思った時の打開策はまさに「新しいことをし続けること」である。

好奇心を絶やさず、学び続けること、活発に外に出て行くこと、それこそが老いを止めることなのだと思う。

それがつまりは、待っていても来ない「いつか」を自ら捕まえに行くことだと思う。

 

私は「いつか」を理由に諦めていた色々なことを思い出したのだった。ふと思いにふけると、些細なことでも「やってみたいこと」「行ってみたい場所」はいくらでもあった。その多くを「いつか」を理由に怠けて忘れていた。25歳で偉そうに語れるようなことではないのだけど、今そのことに気づけてよかったと思う。

 

今日も今日とて大きなことは成し遂げなかった。

けど、「いつか」成し遂げることのために、小さく前進できた日にはなったと思うし、些細な初めての経験もあった。とても有意義な1日だった。